朝焼けに会いに行く
朝焼けに会いに行く
素手で季節をつかむ
なんだか久しぶりに朝焼けを見た気がしました。
夏から秋口にかけては、朝の散歩で淀川の土手に上がった時にはすっかり日が昇っており、道に張り出した葛やゴルフ場の早朝プレイに気を取られているあいだに、朝焼けのことなどすっかり忘れていたのでした。
ふと、日の出前に歩いてみようと思い立ったのはよかったのですが、タイミングをすっかり忘れているとみえて、朝焼けを見るのに一週間かかりました。
かなり気温が下がっているようで、両手をこすり合わせながら歩きました。移ろう季節の便りは、皮膚感覚から届くのですね。
夢洲まで40km。ここから10時間歩き続ければ万博会場にたどり着けるらしい。うれしいような悲しいような標識が立った
jung eunjuさんの写真展(11月22日~26日)までの間を利用して製作途中の≪海風譚 その1~10≫を展示してみました。ここからがいよいよ大変なのですが
ギャラリーの半分は今年の『人物画教室』の作品を展示しています。身近な人を描くのは面白いです
古い資料を探していて、ちょうど一年前に書いた文章が目にとまった。進歩しないもんだなと思いつつも懐かしいのでブログに載せてみます。面白い話ではないので、もの好きで時間の余っている人以外はすっ飛ばしてください。芸術新潮1984.11月号に掲載された藤原新也・西村公朝両氏による密教の宇宙観についての対談の中で、藤原さんが話された蝶の墓の話が、わがふるさと中島が舞台でしたので、そのことに触発されて書いたものです。
内側と外側について
寝室の壁にかける絵が欲しいとの注文でアクリル画を描く。直島旅行の際、雪花宅で夕食をごちそうになり、部屋のイメージはつかめたので競輪ホテル前の日の出を描く。LINEで写真を送り、どうかと尋ねたが、作品としては悪くないと思うが、暗いのでNGとなった。この絵を『暗い』と感じた理由がわからなかった。
思い、イメージ、感情、などをキャンバス上に作品化して伝えることは元来困難なことではあるが、ふと、雪花が僕の作品にみた『暗さ』が何に由来するものかわかったような気がした。
これまで僕は何となくではあるが、思いやイメージなどは心の中、体の内側にあるものだと思っていた。思いのたけをぶちまけるなどという場合も、内側にあるものを外側に吐き出すことだと思っていた。ところが、内側には何もないのではないのか?人間の内側、頭の中は空っぽで何もないのではないのかと思ったのである。プログラムはあるのだろうが具体的な事象は存在しないのではないだろうか。海を見て自身のプログラムに基づいて海を感じるのであって、頭の中に海の映像があるのではない。海をイメージしようと意図的にその時作り出すのである。まるで心の中に海のイメージや像が存在していたかのように自分でも思い違いをしているように思う。この思い違いがキャンバス上ににじみ出てしまう。それは嫌な要素として、例えば『暗さ』としてみる人の目に映るのではないか。思いをぶつけるのはいいが、内側にあると勘違いしているものを見せられると、ダサイ、暗いと感じるのではないのだろうか。
例えば好きな人がいて告白する場合、心の中にある思いを吐き出すようにしてはいけないのだろう。がんばってしゃべればしゃべるほど、相手は、しんどい暗い人だと思うのではないか。心の外にあるもの、たとえば花を一輪とって、好きなのでプレゼントしますといえば充分なのではないか。内側にあるもの、本人がそう思っているものを引き出すようにして提示されると、相手は何となく重くて嫌な感じを受けるものかもしれない。もともとそこには何もないのだから。
プログラムをキャンバスに描けば抽象画になるのかもしれない。僕は具象画を描いているので、内側にあると思い込んでいるイメージだの感情だのは捨て去らなければならない。では具体的にどのように何を作品化すればよいのかわからないのだけれど。
小さな子供にたずねられたら 海の蒼さをもう一度伝えるために
今瞳を閉じて 今瞳を閉じて
これはユーミン≪瞳を閉じて≫の歌詞の一部だ。これを僕は次のように解釈していた。
海を見たことがない子供がいたら、目を閉じて昔見たあの海の蒼さを思い出して、話してあげよう、と。
これは間違っているかもしれない。
海を知らない子供は、自分の中にいるのではないのか?長く都会に暮らして、海の蒼さを忘れてしまった自分がいるのではないのか?そんな自分に対しては、瞳を閉じたところで何にもならないはずである。つまりこの詩は瞳を閉じて、とここで突然終わっているが、実は続きがあるのではないか。つまり瞳を閉じても解決にならない。海辺に立たなければ海の蒼さは解らないのだといいたいのではないのかと。
自分の内側。そこにあるとの思い込みと、そこにあるものを外側に出して作品化しようとすること。そのようなものづくりの方法・手段を他者の目から見たときに生ずる『暗さ』。なんとはなしの重さ。
表現したいものがあるとき、内・外どこから生まれた動機であるにせよ、表現すべき色や形はすべからく自分より外側に『発見』すべきものだと思う。作者の発見は鑑賞者の発見とダイレクトにつながるはずだ。胸を打つということは発見を共有できたときに生まれるものかもしれない。
具体的な手順は検討しなければならない。容易に解決しそうな問題でもないだろうが。2023・11・6 なるお
アートギャラリー まなりや
大阪府枚方市。京阪本線 牧野駅から徒歩3分のアートギャラリー。