成雄君の部屋

成雄君の部屋


その2   父の遺言

「お前たちのことを思ってやったことだ。許してくれ」
 父は弱々しくそう言い残して逝った。
49日の法事を済ませて、残された親子3人で松花堂弁当を食べているときのことだった。
「『許してくれ』なんて親父は言ったけど、何のことか、お母さん心当たりあるの?」
不意に、兄が訊いた。
「そんなこと言ったの。へえー、あの時はとにかく気ぜわしくて、お父さんが何を言っているのかあんまり身を入れて聞いてなかったし・・・」
「確かにそんなことを言ったよ。成雄も聞いたよなあ」
「うん聞いた」
「そうなの?何のことだろうね。お父さん、まじめな人だったけど」
「去年の春」と成雄は、炊き合わせのそら豆を割り箸の先で転がしながら言った。
「壊れていた壁掛け時計を、お父さんが直そうとしたことがあったんだよ。3時間くらいかけたけど、結局、直すどころか元の形に組み立てられなくて、粗大ゴミとして捨ててしまった。僕はそのことを一番に思い出した」 兄も母も、その時初めて、壁掛け時計が我が家から姿を消していることに気がついたようだった。
「だとしても」と母が言った。「そんなこと、いよいよという時に言い出すものかしら」
「もう少し大事なことだろうよ」と兄は言った。
しばらくの間二人とも、怪訝そうな目線を、食い散らかした松花堂弁当の上に泳がせていた。

その1   モロッコ産のタコ

池袋パルコ7階食堂街のサラダショップで一年間働いたが、大阪に帰ることにした。
ハタチの男がだらしなく暮らした木造アパートの四畳半は、悲惨だ。敷布団などは、顔が当たるところが薄汚く変色していて、どう処分したものか、いい知恵も浮かんでこなかった。三カ月ごとに天地を逆にし、裏表をひっくり返しながら、ごまかしごまかし使ってきたので、どう丸めても見苦しい代物になり果てていたからだ。
ちょうどそんなとき、僕より若い男が働き始めた。店長の遠い親戚にあたるとかで、口数の少ない男だった。彼、成雄君は中学を出るとすぐに遠洋漁船に乗せられてモロッコの沖でタコ漁をしていたという。英語は喋れるようになった?と僕が聞くと、斜視の顔を傾けてニヤッと笑った。
「船から降りること、あんまりないんで」
成雄君が部屋を探していることを知って、僕はすぐに声をかけた。営業時間が終わって残飯を台車に載せ、専用エレベーターで降りるとき
「僕の部屋でよかったら、何もかも全部置いていくから、どう?」
何もかもとはいってもたいした物はない。湯沸かしポットとハードカバーの本が数冊と一年間釣銭を放り込んで貯金箱になった菓子箱と、それから布団一式であった。押入れの開き戸に張ったキャンバスの油彩画は丸めて大阪へ持って帰るつもりだった。
業務用洗剤とキャベツの汁がしみ込んだ、胸まである大きな黒いエプロンから目を離さずに
「いいんですか?」と成雄君は言ってくれた。
大阪に帰ってしばらくの間は、店での僕の評判はガタ落ちになっただろうと気にはなったが、半年もしないうちに、ほとんど思い出すこともなくなった。



アートギャラリー まなりや
大阪府枚方市。京阪本線 牧野駅から徒歩3分のアートギャラリー。

share
Prev 謹賀新年とあけおめ
Next 人物画教室・作品展始まる

Leave a comment